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【簡単解説】関ヶ原の戦いに至るまでの経緯

関ヶ原の戦いは、徳川家康(東軍) VS 石田三成(西軍)の戦いと歴史の授業で習うと思いますしかし、関ヶ原の戦いに至るまでの経緯については、歴史の授業では習わないと思います。

ここでは、豊臣秀吉の死後、関ヶ原の戦までの経緯を、6つの大きなポイントを基に、誰にでもわかるように説明しています。

秀吉の死と家康の専横

1598年:豊臣秀吉の死と家康の専横

秀吉が死に家康の専横が始まったところから、始まります。家康が以下のようなことを、無断で行いました。

  • 私的婚姻
  • 諸大名の人質の帰国を無断許可

このような、家康の専横に対して、前田利家を筆頭に、家康に抗議を行いました。この抗議は激しく、武力衝突寸前まで発展したそうです。最終的には、誓書を交換することで、事態は収束しました。

前田利家は、徳川家康と並んで、豊臣秀吉に後事を託された人物で、家康の抑えとなることを期待された人物でした。

前田利家の死と石田三成の謹慎

1599年:前田利家が病死

1599年:石田三成が襲撃され責任を取り居城で謹慎

豊臣政権の重鎮であった前田利家の死により、事態は悪化します。

大阪城下の、自分の屋敷にいた石田三成が、福島正則加藤清正池田輝政細川忠興浅野幸長加藤嘉明黒田長政に、襲撃されます。石田三成は無事に逃げることができましたが、徳川家康毛利輝元上杉景勝北政所(秀吉妻)の仲裁により、居城の澤山城(滋賀県)で謹慎させられます。これによって、家康の専横に抗議するものが一人消えました。

石田三成襲撃事件は、前述した7人の武将が、朝鮮出兵での不満によるものとされていますが、これを示す信頼できる証拠はありません。また、家康が裏で糸を引いて、7人の武将に襲撃させたとも言われています。

前田征伐騒動

1599年/10月:前田利長に謀反の嫌疑と討伐の号令

続いて家康は、前田家を臣従させようとします。家康は、自身の暗殺計画を、前田利長の(前田利家の息子)が企んだとして、加賀(石川県)に兵を差し向けようと諸大名に号令を出します。前田利長は、慌てて、恭順の意を示すために、江戸に人質として母である芳松院(まつ)を派遣しました。

さらに、この混乱に乗じて、家康は無断で大阪城に入城します。これは、秀吉の遺言、「徳川家康伏見城で政務にあたる。」に反するものです。

さらに、家康は、無断で大名の領地の加増(領地を増やす)や、減封(領地を減らす)、転封(領地の移転)を行いました。このように、家康の専横はさらに、進みました。

上杉征伐

1600年/6月:上杉征伐の号令

1600年/7月:家康は江戸城に戻り会津に向け出陣

前田家を恭順させた後に、家康は上杉景勝に、豊臣政権に対する反逆の疑いを向けます。そして、上杉景勝へ上洛を求めます。しかし、上杉景勝が、上洛の時期延期を求めたために、これを口実に上杉征伐を実行しました。

家康は6月に上杉征伐の触れを諸大名に出しました。その後、7月には大阪城から居城の江戸城に戻り、会津に向け自らも軍勢を率いて出陣したのです。

西軍挙兵と東軍西進

家康が、諸大名を率いて上杉征伐に出陣したのと前後して、関ヶ原の戦いにおける西軍が挙兵します。現在では、「内府ちがひの条々」を出した時点を西軍の挙兵しています。

内府ちがいひの条々の意義とは?

※西軍の挙兵は、石田三成が主体的に動いたと思われていますが、西軍の挙兵と石田三成の関係を示す、明確な証拠は見つかっていません。

一方で、家康は上杉征伐を急遽取り止めます。そして、軍を西に向け、関ヶ原の戦いにおける東軍が、西進を開始します。

関ヶ原の戦い

1600年/9月/15日:関ヶ原の戦い

東軍、西軍ともに、各地で戦闘を行いつつ、岐阜県にある関ヶ原に着陣しました。そして、9月15日の関ヶ原の戦いにより、東軍が西軍に勝ち、西軍を指揮した石田三成は捕らえられ、後に斬首されました。

関ヶ原の戦いの戦闘の経緯

後に、家康は征夷大将軍に任じられ江戸幕府を開き、大阪の陣で豊臣家を滅ぼすことになります。

まとめ

最後にここで示した時系列をまとめておきます。

1598年:豊臣秀吉の死と家康の専横

1599年:前田利家が病死

1599年:石田三成が襲撃され責任を取り居城で謹慎

1599年/10月:前田利長に謀反の嫌疑と討伐の号令

1600年/6月:上杉征伐の号令

1600年/7月:家康は江戸城に戻り会津に向け出陣

1600年/9月/15日:関ヶ原の戦い