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脇坂安治の簡単解説:web武将名鑑

脇坂安治は、マイナーな戦国武将で、賤ヶ岳の七本槍に選ばれたこと程度しか知らない方も多いと思います。ここでは、脇坂安治の生涯について簡単に見ていきましょう。

脇坂安治の肖像画

~基本情報~

  • 生存年:1554年~1626年 (72歳)
  • 最高官位従五位下 淡路守
  • :脇坂氏

< 総括 >

仕えるべき主君を見抜く力があり、水軍を指揮した経験がない中で、豊臣水軍の指揮を任されたことから器用な人物であったと考えらえる。しかし、結果論的ではあるが、藤堂高虎と比べると少し見劣りしてしまう。

仕えたい主人を探して

脇坂安治が誕生した地を示す図

脇坂安治は、脇坂安元の長男として近江浅井郡脇坂庄(滋賀県)で誕生しました。始めは、浅井長政の家臣として仕えていましたが、浅井家が滅亡すると織田信長に仕えました。

安治は、織田家家臣になると、明智光秀の与力に黒井城の戦いで戦功をあげます。しかし、居心地が悪かったのか、明智家の下を去ります。

そして、明智光秀と同様に、織田信長の家臣であった豊臣秀吉に頼み込んで使えることになりました。織田信長に命じられて、豊臣秀吉が行った中国攻めにも安治は従軍し、三木城攻め、神吉城攻めで手柄を立て、150石の知行が与えられました。

賤ヶ岳の戦いからとんとん拍子

本能寺の変織田信長が家臣の明智光秀に殺されます。この知らせを受けると、豊臣秀吉は中国地方から、京都にとって返し明智光秀と戦い滅ぼします。その結果、豊臣秀吉の発言力は織田家を超えることになります。(安治は明智家の下を去って政界でした。)

安治は賤ヶ岳の戦いで、手柄を立て賤ヶ岳の七本槍の一人として、豊臣秀吉に称されます。そして、この戦いの功績により、山城国(京都)内に3000石の所領が与えられました。

脇坂安治が豊臣秀吉に与えられた城の位置を示す図

さらに、豊臣秀吉徳川家康が争った、小牧・長久手の戦いで、安治は滝川雄利が籠る伊賀上野城(三重県)を攻略しました。その結果、最終的に淡路洲本3万石の領主となります。

豊臣水軍の指揮官

徳川家康との争いが引き分けに終わった後、豊臣秀吉は天下統一を実行するために、日本各地を転戦します。安治は、淡路に領土に与えられたことから、加藤嘉明とともに淡路水軍を支配下に置き、豊臣水軍の指揮官として活躍します。

九州征伐では、水軍を率いて窮地に立たされた大友宗麟が籠城する臼杵城(大分県)まで兵糧を輸送しました。その後、島津氏の領国、薩摩(鹿児島県)にも水軍を率いて侵入します。そして、安治は同じように水軍を率いる小西行長九鬼嘉隆らと協力して、平佐城を攻めました。

小田原征伐では、海上からの下田城(静岡県)攻撃に参加し、開城させました。

水上・陸上で戦った朝鮮出兵

文禄の役(第一次朝鮮出兵)では、水軍1500人を指揮し、九州から釜山までの海上輸送を担いました。その後、陸地での戦いにも駆り出されます。

安治が活躍した戦いは、龍仁の戦いです。日本軍に占領された漢城(ソウル)奪還を目的に、全羅道長官の李洸は5~10万人の兵を率いて、漢城の近くの脇坂軍600人が守る龍仁城を攻めました。実際に城を攻めた朝鮮軍は、数千人でした。安治は知らせを聞き、1000人の援軍を率いて駆けつけると、日本軍は攻勢に出ます。すると、李洸率いる朝鮮軍は慌てて撤退しました。

その後、李舜臣率いる朝鮮水軍を撃退するために、九鬼嘉隆加藤嘉明らとともに水軍を率いて戦います。安治が功を焦り抜け駆けしたため、脇坂水軍1500人は大敗を喫しました。

慶長の役で(第二次朝鮮出兵)でも、安治は1200人を率い、海上および、陸上での戦闘に参陣しました。漆川梁海戦では、元均率いる朝鮮水軍を壊滅させます。一方、陸上における戦闘では、蔚山倭城の戦いなどに参加しました。

朝鮮出兵は、豊臣秀吉の死によって終わりを告げます。日本軍は朝鮮半島から撤退しました。

七将の一人?

豊臣秀吉が亡くなると、徳川家康が専横を行います。そして、徳川家康を支持しない武将は、徳川家康に抗議しました。

その後、徳川家康の行動に抗議していた、石田三成大阪城下にある屋敷が七人将によって襲撃されます。安治がこの七人将の一人であったとする資料もありますが、実際はよくわかっていません。

関ヶ原の戦い

徳川家康が、謀反の嫌疑を上杉景勝にかけて会津征伐の号令を出すと、安治は次男の脇河安元を会津征伐に同行させようとします。しかし、反徳川家康側に邪魔され、失敗しました。そこで、安治はこの事情を、徳川家康に伝えました。

徳川家康が、会津に攻め入ろうとしている隙をついて、反徳川家康方が挙兵します。関ヶ原の戦いにおける西軍です。

安治は、東軍に所属したかったようですが、西軍の挙兵は安治が大阪に滞在してる時でした。そこで、嫌々1000名の兵を率いて西軍に与することになりました。しかし、安治は東軍の、藤堂高虎の内応工作を受けていたため、関ヶ原の戦い本戦では、西軍を裏切り平塚為広、戸田勝成を攻撃し、東軍勝利に終わります。

脇坂安治の関ヶ原の戦い後の領地と居城を示す図

安治は、関ヶ原の戦い以前から東軍側の立場にあることを表明していました。そのため、戦後に所領は没収されませんでした。そして、9年後、伊予大洲5万3000石に加増転封されました。

晩年

安治は大阪の陣に参陣せず、次男の安元が参陣しました。大阪の陣の後に、次男の安元に脇坂家の家督を譲り、安治は隠居します。そして、大洲から京都に移り、亡くなりました。72歳でした。