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関ヶ原の戦いの戦闘の経緯

ここでは、関ヶ原の戦いの戦闘の流れを、解説しています。実は、関ヶ原の戦いの実際の戦闘の時系列についてはわかっていないことも多いです。

両軍の布陣

関ヶ原の戦いの量人の布陣のイラスト

両軍の布陣に関しては、上図のようになっています。緑色の部分は、周囲より標高が高い山です。激戦が繰り広げられたのは、兵が密集している左の部分です。激戦地帯を拡大すると以下のようになります。

関ヶ原の戦いの両軍の布陣を拡大したイラスト

簡単に説明すると、以下です。

戦闘開始

関ヶ原の戦の日の朝は、霧が立ち込めていました。午前8時くらいになると、徐々に霧が晴れ、両軍の戦闘が始まります。

戦闘開始時の関ヶ原の戦いのイラスト

福島正則(東軍) VS宇喜多秀家(西軍)

実際の戦いは、東軍の先手を任された、福島正則の部隊と、西軍の宇喜多秀家の部隊の戦闘により開始されます。福島正則の軍勢は、鉄砲を撃ちかけ突撃を試みした。それに対し、宇喜多秀家の部隊の先鋒、明石全登は福島軍を十分に引つけてから、鉄砲を撃ち返しました。その結果、福島軍の先鋒は、崩れかかります。福島正則は、自ら乗馬して部下に激を飛ばし、敗走を阻止したそうです。

※徳川家の重臣井伊直政が、徳川家康の四男、松平忠吉を伴い抜け駆けして、初陣の忠吉に手柄を立てさせようとして戦いが始まったという逸話があります。ただし、この逸話のようなことがあったようですが、詳細の真偽は明らかになっていません。

西軍の総崩れ

関ヶ原の戦い全軍の衝突を示したイラスト
福島軍と宇喜多軍との戦闘開始後に、西軍と東軍の諸将が激突しました。上図の黒い矢印で示すように、西軍と東軍が激しく戦闘を繰り広げたのです。西軍、東軍ともに奮闘する中、以下のことが起きます。(詳しい時系列についてはわかっていません。\

黒田長政竹中重門による石田軍攻撃

関ヶ原の戦いが起きたのは、現在の岐阜県です。竹中重門は、岐阜県に所領を得ていた人物で、関ヶ原周辺に土地勘がありました。両軍入り乱れた戦闘を行っている中、黒田長政竹中重門と協力し、手勢を引き連れて、石田軍の側面から攻撃しました。

黒田長政竹中重門は、間道を抜けて石田軍の先鋒を務める、名軍師と言われる島左近が率いる軍勢に、側面から攻撃を仕掛けました。黒田長政らは、鉄砲隊を並べて、狙撃させました。不意をつかれた島左近の軍勢は。多くの死傷者を出します。島左近自身も、重傷を負ったと言われることもあります。

島左近の軍勢への攻撃はほどほどに、黒田長政竹中重門は、石田三成率いる本軍と戦い、これを打ち破りました。そして、石田三成伊吹山に向けて、逃走を開始したと言われています。

小早川秀秋らの裏切り

関ヶ原の戦いの大勢を決めたのは、小早川秀秋が、西軍から東軍に寝返ったためだと言われています。小早川秀秋は、関ヶ原の戦い当日よりかなり前から、黒田長政を通じて、東軍に寝返ることが、ほぼ確実になっていました。

西軍も、小早川秀秋の裏切りは予測していたため、大谷吉継、木下頼嗣、戸田勝成、平塚為広らは、この裏切りに備えた布陣をしていました。案の定、小早川秀秋裏切ります。そして、それに釣られるように、近くに布陣していた、赤座直保小川祐忠朽木元綱脇坂安治も西軍を裏切り東軍につきました。

そして、西軍を裏切った諸将の攻撃を、大谷吉継らは懸命に防ぎますが、持ちこたえきれませんでした。大谷吉継らを退けた小早川秀秋は、勢いに乗じて宇喜多秀家小西行長の軍勢にも攻撃を仕掛け、打ち破りました。

小早川秀秋が、関ヶ原の戦いの、どの時点で攻撃を開始したかは明らかになっていません。また、徳川家康小早川秀秋に裏切りの催促をするために、鉄砲を撃ちかけたと言われてきましたが、後世の創作の疑いが強まっています。

島津家退却

関ヶ原の戦いにおける島津軍逃走経路

島津軍敵の真ん中を突き抜けて撤退

黒田長政に追撃され逃走中の石田軍、小早川の秀秋により壊滅した、大谷軍、宇喜多軍、小西軍らに対し、島津軍はほぼ無傷の状態でした。しかし、西軍の敗退はほぼ確実です。

このような中、島津軍を率いる島津義弘は大胆な退却を試みます。何と後方に向かって退却するのではなく、敵のど真ん中を突き抜けてそのまま退却するという手法でした。

島津軍は、「捨て奸(すてまがり)」と言われる退却方法を取ります。軍の最後尾に小部隊を残し、小部隊が死ぬまで敵の追撃を防ぎ、本隊を逃がすという退却の仕方です。島津君は、捨て奸を繰り返して退却しました。

島津軍は、最初に福島正則率いる軍に突撃しこれを振り切ると、井伊直政松平忠吉本多忠勝の追撃を防ぎながら、指揮官、島津義弘を逃がすことに成功しました。一方で島津豊久以下、多くの家臣が討死を遂げます。島津軍はこの退却戦で、井伊直政に傷を負わせました。後に、井伊直政はこの傷が原因で亡くなります。

南宮山側はほぼ戦闘なし

関ヶ原の戦いの南宮山側の拡大図

関ヶ原の戦いの激戦が繰り広げられた側とは打って変わって、南宮山側は、ほとんど戦闘らしい戦闘はありませんでした。せいぜい、鉄砲を撃ちかけ合った程度でした。これは、西軍を裏切った吉川広家が、持ち場を動かず邪魔になり、他の西軍諸将が、東軍の押さえを攻撃できなかったからです。結果として、南宮山に布陣した西軍は、ほぼ戦うことなく撤退しました。

最後に

以上が関ヶ原の戦いの戦闘の経緯です。関ヶ原の戦いでは、徳川家康が勝ちましたが、石田三成は討ち取られていません。石田三成は近江(滋賀県)まで逃亡し、潜伏していましたが、田中吉政の配下に捕らえられ、後に京都の六条河原で斬首されました。