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石田三成の簡単解説:web武将名鑑

石田三成は、関ヶ原の戦い徳川家康に負けた人として、記憶されている方が多いと思います。そして、これ以外は、知らない方が多いはずです。そこで、ここでは、石田三成の生涯について、5つのターニングポイントに分けて紹介します。

石田三成の肖像画

豊臣秀吉に仕える

石田三成は、近江(滋賀県)の坂田郡(長浜市)の石田村で生まれました。父は石田正継で、三成は次男でした。

三成は、豊臣秀吉長浜城主の時に、小姓として仕え始めたと言われています。

天下統一での活躍

織田信長を裏切った明智光秀を討ち取ることに成功しました。そして、これを契機に、豊臣秀吉織田信長の実質的後継者として名乗りを上げます。このような、行動を許さなかったのが、織田家家臣の柴田勝家です。豊臣秀吉は、柴田勝家と他戦い破ります。この戦いで、三成は一番槍の功を上げました。石田三成は、行政担当のイメージが強いですが、槍働きもしていたのです。

その後、九州征伐の前年に、堺奉行を命じられます。当時の堺は、交易で栄えた都市で、豪商が住む街です。三成の役目は、奉行として堺を統制し、九州征伐に向けた兵站を堺に確保することでした。三成はこの役目を見事成し遂げ、九州征伐では水軍利用して、兵や物資の輸送に貢献しました。ちなみに、九州征伐により、臣従した島津家の取次役は三成が担当することになりました。

豊臣秀吉の最後の天下統一事業、小田原征伐にも、三成は参加します。三成は、忍城の水攻めを命じられます。しかし、水攻めは失敗し、小田原城が落ちた後にも、忍城は落城しませんでした。

近年まで、忍城の水攻めの失敗を以て、石田三成は戦下手と評価されてきましたが、作戦の立案指示をしたのが、豊臣秀吉であることが明らかとなっています。つまり、忍城攻め失敗の責任は、三成ではなく、豊臣秀吉にあるのです。

豊臣秀吉政権下での活躍

天下統一後も大忙し

1592年:文禄の役(朝鮮出兵) (32歳)

1595年:佐和山城の城主 19万4000石 (35歳)

1597年:慶長の役(朝鮮出兵) (37歳)

 最初の朝鮮出兵では、実際に朝鮮半島に渡り、奉行の役割を担いながら、戦いにも参加しました。現地に派遣された武将と、豊臣秀吉の連絡役を担ったため、現地に派遣された武将の一部から、反感を買ったと言われています。その後、明(中国)との講和のために、使者を伴って日本に帰国しますが、交渉は決裂しました。

これと前後して、三成には、佐和山(滋賀県)が与えられ、佐和山城を本拠地とする、19万4000石の所領が与えられます。佐和山は、交通の要所であり軍事的にも重要な地です。豊臣秀吉の信頼が窺えます。ちなみに、佐和山に領地が与えられる前は、美濃に所領を持っていたようです。

一度目の朝鮮出兵で交渉が決裂したため、二度目の出兵が行われました。三成は日本国内に留まり、後方支援に徹しました。現地に派遣された武将が、戦線の縮小を提案すると豊臣秀吉は激怒しました。これを伝えたのが、三成の家臣であったことから、ここでも現地に派遣された武将の反感を買います。

徳川家康との対決

ここの失敗が評価に影響

1598年:豊臣秀吉が死去 (38歳)

1599年:前田利家が死去 (39歳)

1599年:七将による襲撃事件、謹慎 (39歳)

1600年:関ヶ原の戦い、斬首 (VS徳川家康)(40歳)

豊臣秀吉が死ぬと、徳川家康の専横が始まります。これに対して、石田三成は、前田利家を中心として、徳川家康に抗議します。しかし、豊臣秀吉が亡くなって、1年後に徳川家康の押さえとして期待された前田利家が亡くなります。そして、事態は悪化します。

前田利家が亡くなるとすぐに、福島正則ら七人の大名が、大阪城下の、三成の屋敷を襲撃します。そこで、三成は伏見城に逃げ込み抵抗しました。七人の大名は、伏見城で抵抗したのは、三成だけでなく、五奉行前田玄以増田長盛長束正家も抵抗したと言われていますが定かではありません。また、そもそも、七人の大名の動機も明らかではなく、朝鮮州出兵での不満、徳川家康がけしかけたなどと言われています。

いずれにせよ、徳川家康毛利輝元上杉景勝、北の政所(豊臣秀吉の妻)の仲裁により、三成は襲撃事件の責任を取らされる形で、奉行職を解任され、居城佐和山城で謹慎させられます。

そして、徳川家康の専横に我慢ならなくなった豊臣恩顧の家臣が、徳川家康が上杉征伐に向かった隙に、挙兵します。後の、関ヶ原の戦いで西軍に属する人たちです。歴史では、三成が蜂起して関ヶ原の戦いが起きたと習いますが、実は、三成が西軍の挙兵に関わったことを示す証拠は見つかっていません。ちなみに、西軍が挙兵するまで、三成は謹慎状態でした。

最終的に、関ヶ原の戦いで西軍は、徳川家康率いる東軍に敗れます。そして、三成は滋賀県に潜伏しますが、東軍の田中吉政に捕らえられました。その後、大津城で生き曝しにされた後、大阪、堺を引き回された京都に連れて行かれます。そして、京都の六畳瓦で斬首されました。